「山の恵みを活かす知恵」

 昔から受け継いだ技能を、持ち合わせた地域の工務店や職人が少なくなってきました。そして、その技量を発揮する機会も数えるほどです。工務店の看板を掲げ、作業員を確保する事業所はありますが、生産性を重視した工程で、手引き通りに作業をこなし、家という商品を作っているようなところです。比較的、参入が容易な住宅産業です。気軽に取り組める商売や職業であれば、その質はそれほど高いものではないように思います。住宅が商品として扱われ、職人の技量を取り入れずに、その仕組みばかりを今の売れ筋にあわせている昨今。それを求める人の価値観も変化をし、地域の中で求めている需要ではなくなりました。より広域に、様々な手段で手に入るものと同じ様に扱われてきています。

 技能や技術の修得は、そんなに簡単なものではなく、時間がかかります。また、かけなければなりません。その部分を省こうとする商売人が多くなってきました。今一度、地域社会とつながり、つり合うための知恵と工夫を考えたいものです。伏見建築事務所では、地域に根付いた大工たちが、人と人とのつながりを大切にして、信頼される家づくりを心掛けています。伏見建築事務所の大工たちの技能は、先輩たちから受け継がれた、昔ながらの技量であり、それ以上でもそれ以下でもありません。これから築くかけがえのない財産の一つに、木の良さを感じる住まいを選択されたからには、わたしたちはその期待に応えます。心を込めて丁寧に、手の仕事で造り上げ、末永く見守ります。

  森林資源とともに生きてきた私たちです。その資源を住宅建築や生活様式の中で活用をしてきたこと、つまり木を使うことは文化です。政策によって左右される流行ではないのです。流行ったものは廃るのです。継続してある一定の量の好循環を考えないといけません。源流に還元するために、または、好循環を呼び戻すために、私たちが携わっている建築の分野で出来ることは何なのでしょうか。ひとつは知ることです。山のことを、木のことを。建築に携わるそれぞれが、一昔前の様にたくさん木を眺め、木を触り、その特性を知ることです。良いところはもちろん、不具合もあります。向き合いましょう。もう一つは絶やさないことです。間伐をする木や育て続ける木の目利きができる山守の継承。製材所は、木をその目で見て挽きたて、目的をもって木を流通させることです。大工は木の癖を見極めながら、継ぎ手や仕口の墨を付け、適材を適所に配した木組みをする。原板からよく見える化粧材の木造りをし、先人達の工夫を活かして造作材を納めることです。設計者はその地の風土を形にしてきました。地道に受け継ぐことでしょう。

 伏見建築事務所の「奈良をつなぐ木の家」は奈良県吉野地方で「撫育」された杉や桧で手作りされた住宅です。たびたび森の中へ赴き、山守さんのお話を聞き、木材として出材されるまでの施業の経過を聞くうちに、その木の特徴をよく理解したうえで、加工をしていくのです。  

 吉野郡川上村は奈良県の南東部に位置する吉野林業の中心地です。また、吉野川(紀の川)の源流が位置する村であり、山と川を守るために森林の整備を基本にしながら、持続可能な自然環境の好循環をめざしている村です。この地には太古から、樹木の生育のために必要な土と水が、恵まれた環境により蓄えられ、その自然と風土により、豊富な天然林が山々を覆い茂っていたことが想像できます。七世紀、やがて、役行者により知られる山岳修行の場として盛んになると、その地に根付くため、寺院や坊が建立され、天然の樹木はその用材として利用され始めました。その後、吉野山の金峯山寺の蔵王堂の柱は、多くの種類の樹木が、その大断面を有効に活用され、原木の曲がりをそのまま利用するなど、自然な形で今も立派に本尊を守り続けています。 

 時は流れ、材の需要が高まると、この地の人々は植林を始めたのです。室町時代のこと、記録に残る日本最古の人工林の始まりです。戦国時代には、城などの建築用材としても重宝され、伐採した木は筏組みをして吉野川を下り、市場へと流通したのです。大阪城、伏見城にも吉野の材が用いられたといいます。江戸時代には木の特性が樽の用材として適していると、「密植」「多間伐」「長伐期」という独自の育林方法が生まれました。その手法は撫でるように育てるという意味で、「撫育ぶいく」と呼ばれています。また、「借地林業」「山守(木の世話をする人)と山主(木の持ち主)」という独特の制度を確立し、川上村は発展しながら、日本の林業を牽引してきました。

 日本建築の様式が住まい手に受け入れられていた昭和の時代まで山は活発でした。需要があれば、その製材方法に工夫を加え、製品としての良材を提供してきたのです。

画像:一部、川上村公営閲覧頁から引用

 日本の森林の多くは、戦後の復興期に植林をされた樹齢、六十年から七十年の杉や桧です。その多くが伐期を迎えようとしています。ここ数十年、外国産木材の輸入や価値観の変化により、経済の問題もさることながら、環境においても悪循環に陥っています。森林資源を取り巻く経済と、環境の循環はどの時代においても同じで、その時々でうまく需要に応えながら循環をしてきました。また、知恵と工夫で乗り越えてきたのです。「密植」「多間伐」「長伐期」の育林方法は偶然と呼ぶには余りあるほどの成果をもたらしました。「密植」することで年輪の間隔が細かな木が育ちました。育つうちに日当たりの悪いところは、自ら枝を落としました。常緑樹ではありますが、不要な枝葉は枯らせて落とすのです。枯れた枝は、生活に必要な火の焚き付けになり、落ちた枝や間伐された細い木は薪として利用されました。落ち葉を拾い集めることで、森の清掃は行き届いたのです。通直で円に近い形をした木をそろえるための間伐は十五年から二十年に一度行われ、間伐ごとに様々な用材として、利用され、市場で換金されたものが山の手入れや植林に還元されました。環境に対しては、間伐により開けた空からの木漏れ日により、適度に地表を覆い、生えた下草は、降雨による土砂の流出を防ぐ役割や保水により、時間をかけて根に水分を供給する役割、そして、森の生態系にも重要な効果を発揮していたのです。

 間伐を繰り返し、年輪が細かく、節の少ない木が育てられたことで、ある時代には樽丸の材料、ある時期には足場丸太や垂木、近代では造作化粧材、そして、柱や梁などの構造材としての用材にと、その時代の需要に応え続けてきたのです。

  四十年前に植林をされた森が、好循環もしくは悪循環の岐路に立たされている顕著な風景を作りだしています。ある時期の間伐で出した材の価値が、遜色を示すとなると、それ以降は出材を見送ります。出す時期を思案するうちに間伐の時期が遅れます。山主は山守の催促にも応えられなくなり、費用が還元されない山は手入れが行き届かなくなります。それと同時に施業をする人材もいなくなり、経済的にも、環境においても悪循環を繰り返します。 

 そんな吉野の山には良材が、まだまだ存在しています。こんなに近いところに素晴らしい木材があるのに、わざわざ遠くの外国から運ばれてきたものを使うことはないのです。

  知ってください。見てください。木を切ることがよくないことなのか。それとも必要なことなのか。1町(百米×百米)の範囲であれば一万本を「密植」してきた吉野の森のあちこちに十五年から二十年ごとに間伐を繰り返す「多間伐」を行い二百年以上経った木を未だに残しながらの「長伐期」により現存する立木をみていただくとよくわかります。切ることで、使うことで生まれる好循環が何を意味するのかを分かっていただけます。構造材、化粧材としての品質の良さがどのようなものかはすぐに理解ができます。製材された木の端材は、細い切り落としまでもが有効に利用されるのです。精魂込めて取り扱われた用材で、仮に不具合が生じたとしても、それ以上の良さがあることを知ってもらうことで、愛着が深まるのです。

 山守は言います。「わたしが育てているこの木が大きくなって使われるのは、百年、二百年先の遠い未来。そのころにはわたしはもういない。それでも、わたしが育てたこの木が未来の人々に使われて、よろこばれている姿を想像すると嬉しくて、わたしは木を育て、山を守るのです。」

  吉野の山の木を使って家づくりを完成した家族のお子さまが、森の見学から完成に至るまでの報告を小学校の自由研究の課題として発表をしてくれました。木を使うことは文化です。文化は人の心に宿ります。おとなもこどもも意識をしなくても、森の中で木に触れると心も体も和むものです。その木が自分たちの家として、森から移ってきたのだととらえられると、そこは心を癒し、体を和ませ、みんなが幸せになります。

  幾度となく時代の荒波を乗り越え、需要と供給のつり合いを保ちながら、今日まで受け継がれてきた山。私たちは、この素晴らしい資源を多方面へと活きて流す源流となり、その活用により好循環を呼び戻す役目を託されています。山地で育った森林の資源が、流れ着く先で、まち並みの景観形成やくらしの中まで入り込んでいます。切っても切り離せない木の文化を引き継いでいくひとつの知恵は、私たちのなかにもあるのです。