「工務店の技術の継承」

 伏見康司  ふしみやすじ   株式会社伏見建築事務所

 

回顧

 昭和が終わる頃、通いの外弟子として就いた大工の修行は、親方が手間で請け負った現場での手習いを積み重ねることだった。その頃は施主が工務店に委ねる注文住宅が主な仕事場で、構造材などは親方が看板板に描きだした木組みをもとに納材された。

 親方が墨付けをした土台や柱は国産材の桧がほとんどで、小屋梁には地松と米松が混在していた。製材された丸太の太鼓梁は子方が皮を剥いて、電気かんなで面を取り下拵えをする。親方が墨付けをした太鼓梁は再び子方が刻むといった具合だった。子方は刻みながら横目で墨付けを覚えたものだ。刻みの順番を待つ積み上げられた材料の中で、継手の墨が描き改められることがあった。継ぐ相手の材の特性を考慮し、より強固に組み上げるための変更だということが、数年後、自分が手掛けるようになってよく分かった。造作材は国産の杉や桧などを和室の設えに用いていたが、洋室の枠材などには輸入材の米栂やラワンを納めたのを思い出す。材料は製材されたものを荒木で仕入れ、木造りや仕上げは手作業だった。外装の仕上げは湿式の左官下地の上に塗装をしたものが主流だった。

平成に入った。誰もが疑うことなく調子に乗っていた。多くの大工は小さな区画で分譲する建売住宅での現場が増え、金儲けに走り浮足立った町の不動産業者に付き合わなければならなかった。その時は大工をはじめとする職人の立場は落ちぶれてはいなかった。和室の造作は多くはないが存在し、内法材料として、寄木の集成材の表面に桧などの単板を張った鴨居や敷居が現場に来るようになった。溝を切る電動工具を手で操って、建具の見込み寸法や枚数を先読みしながら寸法を割り出して納めた。窓枠や入口の枠、巾木や廻り縁もラワンの原板を仕入れ、分止まり良く引き割って、万能木工機にかけて加工をし、現場へ運び込んだものだ。その後、建具が枠ごと箱詰めされて現場に届いた。装飾が施された無垢材の塗装品だったので、どちらかといえば特別にあつらえた高級感があった。それから何年もたたないうちに、木目調を印刷したものを表面に貼った枠材、廻り縁、巾木が新建材として出回り、建具も高級感が薄れた印刷したものに代わってきた。数年後に手掛けた現場に訪れる機会があり、取り付けられた新建材を見て愕然とした。表面の印刷物がはがれ、紙を圧縮した基材がむき出しになり、何とも見苦しい限りである。精一杯作り上げた住まいに、思いもよらず汚点を残したのだった。このような材料を使わないでおこうと決めた瞬間でもある。外装は窯業系の壁材を張った乾式に代わりつつあり、その後の経年変化はここに書き記すまでもない。

住宅販売の会社に従事する営業担当者や、現場を差配する工事管理者は請負大工に仕事をあてがう。大工にとってのお客様はこの人たちだ。仕事は与えている立場ではあるが、技能を持ち合わせた大工を崇めたことだろう。その時はまだあった大工の威厳が、時間とともに薄れていく。

他社との違いを前面に出した住宅が売り出される。職人にとっては、新製品や新たな工法での仕事を頼まれると、今までと違った手間がとられる面倒な仕事となる。かといって増額を要求する根拠を提示できないので、単価はそんなに上がらない。坪単価で手間請負をしていた大工は、結果として日当が下落すると、単価の値上げや時間の延長、もしくは仕事を省くことを要望した。要望というよりは文句のようなものだった。発注者である住宅販売の会社はいつまでも愚痴や言い訳を聞かない。現場での作業を簡略化できる工場生産品を多用し始め、組み立てさえ出来れば誰にでも作業が可能な仕組みを作った。大工とは名ばかりで技量に関係なく、手順さえわかれば、墨付けや刻み、材料を削って仕上げる本来の姿は必要がなくなったのである。

独自の手法で本来の姿を貫き通している大工や工務店は確かに存在する。仕事をあてがってもらえるところを頼りにしたがため、不本意ながらやりたくない仕事を強いられつづけているところもある。そのまま引き続き宣伝広告に頼る住宅販売の会社にぶらさがるか、これらに一線を画し、再び自らの力と考え方で建築に携わろうと考えなおすかが、工務店、ひいては大工の能力の維持につながるのではなかろうか。せめて平成の始まりぐらいの時期まで遡りたい。 

 担い手像

何に頼ろうとしているのかがわからない。外国人労働者が悪いとは言わない。人材はいくらでもいるはずなのに、日本の若者に目を向けようとしないこの業界の雇用情勢を考えるとうんざりする。若者自身が消極的なのか、いつまでも子離れ親離れをしない家庭環境が悲観的なのかはわからないが、次の世代のことを考えると、正規雇用として迎え入れることを考えないといけない。新人に対しては、この業界の時代の流れと今後の展望を話しながら、希望が持てるような職場にすることが不可欠である。

今従事してくれている経験年数が五年以下の大工連中に対し、求人の際には単に建築業に携わることを仕事内容として掲げていない。願わくは、従来の大工技能の習得を求めている。奈良県立高等学校の進路指導の先生に、一人の新卒生徒を次年度から頼むといわれた。その際に労働局へ募集の届け出をすることが必要であるという。就職をしたいのは先方ではあるが、こちらから募集をしたことにするのだ。労働局からすると、企業としての質の判断と、雇い入れた新卒生の動向を追跡しやすくするためらしい。就業してから三年未満で離職する若者が多いという。そのためにしっかり雇い留めているかを監視しているようだ。職を離れる理由には、雇用関係にある双方に問題はあるかとも思うが、雇い入れる方の覚悟が欠落をしているのに他ならない。

零細企業といえども雇い入れると、社会保障の義務がある。当然、老後のことも視野に入れ、大企業と同類の働き方を提供することも必然になり、各事業者が取り組むべきことである。そのことが心配という理由で就職できないとは言われてはいけない。

大工としての技能は、在来軸組み工法の墨付けと刻みが手掛けられること、そして和室の造作が施せることやその造作材料を木造りできること、あるいは建具のおさまりなどを考慮し、溝をつけるなどの加工ができることだと位置付けている。鑿や鉋などの道具の手入れなどは出来て当然である。

今は従事してくれる二十代前半の三人と、五十歳前後の三人は全員が大工職で、年の差を考えると親子のような関係で仕事をこなすことができている。最年少が来てから丸三年、うまくこの体制で現場を支えてくれている。この親世代の大工が、自らの子や知人の子を連れて、稼業を継がせることは少なくなった。昨今の経済情勢と時代背景が消極的な職方の考え方を生み出し、誇りをもって従事できる職業として勧めていないことが顕著に現れている。少し早いが二十代前半の三人に、弟子を育てろと言っている。その次の担い手を意識してほしいと願う。

地域に根差すことを掲げる以上は、身近な町の工務店であり続けなければならない。大工として重宝されすぎると、一般市民からは遠い存在になってしまう。敷居が上がると仕事が頼みにくくなり、地域住民に寄り添うことができる町の工務店ではなくなる。地元に密着した工務店として続けていくために、施主との関係を保ち、そのつながりで仕事が続くことがより重要になる。毎年実施している年次点検に、若手大工を連れていくと、簡単な修繕はその場でこなしてくれている。建築当時には従事していなかったが、三度目の訪問で顔見知りになる。若者であるがゆえに気軽にたのみやすい現象が生まれ、自然に仕事として受け継がれる。

点検では先輩大工が施した仕事の経年変化による不具合を目の当たりにしている。表には出てこない下地とはいえ、仕上げに及ぼす影響が時間を経て発生することも見えてくる。隠れるからと言って、いい加減な仕事をしてはいけないと身に染み込ませる。建具の不具合は、建て込んだ枠材の水平や垂直、敷居のむくりなどによる不陸が原因で起こる。内法材、枠材の木の取り方で反りなどによる不具合が起こることを知る。納めたものが本当に良い使い方だったのかを学び、以後の仕事に活かすことを伝えている。何事も経験としてその後に反映させるためではあるが、変形が必ず付きまとう無垢材との付き合いを、不具合が多発するからと言って使用を拒み、接着剤で張られた既製品に逃げることがないようにしてほしい。

建築業として

営業と現場管理、そして、会計と総務企画など、工務店の経営となると、様々な事務作業もついてくる。専門外の仕事は任せた方が良いとよく言われるが、会社の規模によりけりだと考える。契約を取り付けるだけではなく、点検や少しの修繕で訪れ、笑顔で挨拶をするのも営業の一つである。若手大工には五十歳代の先輩大工の元、手ほどきを受ける傍ら、工程に合わせた材料の拾い出し、手配や調達をしてもらっている。新築の現場では基礎工事から家具の造作や据え付け、木製建具の切り込み、建物の引き渡し後の外柵工事があるとすれば、大工工事の延長で携わってもらっている。

工事の一から十まで携わることで、工程の管理を養うことができる。材料の拾い出しは、日々、現場で従事しながら必要な材料の数量を数えること自体がそれにあたる。受け持った仕事に費やす作業時間は把握できているので、労務人件費がはじき出すことができる。日ごろの作業に加えて事務処理が自然とこなせるようになると、大工になりたかった者、そうではない者に関わらず、前向きにやりがいをもって日々過ごしていると聞いている。この職業に従事することが長続きすることを願うのはもちろん、その次の世代にも繋げていってもらうために、やるべきことを進めている。現場監督と営業に関しては、別途で専門職を雇い入れるのではなく、常に現場で汗を流している職人が施主の近くで従事することが、工務店としての信頼にもつながると考える。

地の利

 町家や農村集落に現存する古い民家が数多く残る傍で仕事をさせてもらっている。墨付けや刻み、仕口の加工や造作材の仕上げは新築現場で養われ、改築や改修工事に応用される。残す意義のあるものや、思い入れがある建物は簡単に取り壊してはいけない。それを残そうとする気概と同時に、それを手掛ける職人がいなければ残らない。その多くを担うのがそこに存在する技能である。

 残そうとする建物にかける費用をはじき出さなければ、仕事にならないのであれば、それをする必要があり、できなければならない。改修に必要な材料と手間を算定するには経験を活かすことが重要である。例えば、建物の水平や垂直を補正するための工事費用を算出するためには、作り上げた工程をどこまで遡るかにより行う。これらを手掛けたことがあればその際に、見えなくなっているところが想像でき、その経験がものをいう。実際には経験値の高い大工は減っているので、改修工事があれば、その時の機会に期待をしている。ある古民家の改修工事に携わったときに、新入りの大工を配した。新築工事も経験したことがないのでいきなり難易度の高い仕事といっていい。本人の希望によるところだったが、先ほどの話とは順序が逆の経験ではあったが、結果的にそのことが新築現場の難易度を下げたことも事実である。

 無垢材の不具合による苦情を止めることは非常に困難であるが故、逆の発想がある。如何に木の良さを知ってもらうかだと考える。良好な材を出す林業の地がすぐそばにあり、そこへ赴いてその目で見ることができるのが幸いである。域型住宅グリーン化事業に参画する「奈良をつなぐ家づくりの会」の取り組みの中に、吉野林業を伝える日帰り旅行の企画がある。行程には製材所や構造体が見ることができる工事中の現場へ訪れる機会を設け、施主をはじめ設計者、工務店の参加を募っている。若手大工も同行し、毎回、新たな気づきを得ている。施主も同行することにより、共通の見解を持ち合わせることができている。片やものづくりとしての木の特性を知る。片や素材に包まれた生活空間としての木の存在がある。良好な生活環境となることが、木の特性による不具合などの欠点よりも、木の良さが上回ることを訴えている。実際の生活空間として実感したときの意見を聞くことにより、次の施主に対しての良い情報提供としている。同時に今の環境問題に対する好循環を模索し、無垢材を提供する道筋を見出している。

今後とも

時代の荒波に揉まれながらやっとここまで来た。流れに逆らうほどでもないが、大きく流されることなく舟をこいでいる。自分で下す評価と傍目で見たものとがそう遠くなければ間違ってはいなかったと思うが、答えは見つからない。支えてくれる人たちと共に、頼りにされることがある以上は続けていかなくてはいけない。続けることが最も困難なことではあるが、誰がためにということが心からなくならない限り辞めることはできない。

時間と予算の制限はつき物ではあるが、なにが良いのか悪いのか、ものづくりとしての信念を貫き通し判断したい。金儲け主義に媚びへつらうことなく、施主の方に目を向け仕事を続けていくことが、建築業界のためになることだと、次の担い手達に強く言いたい。