「建築文化の保守と革新」

 

奈良支部 伏見康司

 

 昔ながらの職人の技能を持ち合わせているにもかかわらず、それを発揮することができる土俵に上ることのない職人たちは今、どこにいるのだろう。今、かろうじて探せば存在する家大工はあと十数年でその場を去ろうとしている。その最後尾にいる世代が仕事に就いたころは、実体経済から大幅にかけ離れて上昇する経済状況の絶頂期に下積みをし、親方に鍛えられて、一つの現場が終わればまた次の現場で経験を積み、実入りはなかったけれども、技能を習得するする機会には事欠くことなく恵まれた時代だった。墨付けをし、手で刻み、建て方、屋根仕舞、そして据え置きの機械で木造りをする。鑿で穴を掘り、鉋を掛けて内部の造作材をおさめた。道具の中でも刃物は自分で研いで手入れができるのが一人前の大工である。それを見て習ったものだ。親方というと当たり前ではあるが一人前である。弟子たちも数年すれば、当然、手慣れたものになる。とは言え大工も人間だ。墨付けの仕事では誤りもする。しかし、自尊心は人一倍高く持ち合わせる大工は、その自尊心が邪魔をして進む方向を間違えたのである。間違うことが嫌なのだ、恥ずかしいのだ。墨付けと刻みを機械化された工場に注文すれば恥をかくこともない。なんとも情けない話である。忙しいので納期が短縮できるという口実で試してみた。当初は間違いが多くて馬鹿にしていたが、そこは機械である。人間と違って改良を加えることによって精度は上がっていった。早く、きれいに、正確に、おまけに安く出来上がってきた。一方では、刃物を研ぐのは面倒だと言い出す。逆目が止まらない、台の調子が出ない、下手なだけだ。和室の造作材は、単価の削減により寄せ集めて作られた基材に単板を張った化粧材が出回ってきた。良い口実だ。木造りや仕上げをしなくてもよいのだ。とはいえ、五厘の厚みがあるかないかの単板を鉋で仕上げて内法を収めたのも事実である。

  時代は流れ、経験と勘に頼ってきた職人の技量に明確な水準が無いのも結果的に辛い話になった。手がけた大工により、施工された品質にばらつきがあった。精度が認められないがゆえに、その強度が数値化できない。よって、ここまで積み上げてきた実績が否定されたのである。震災による被害状況は真摯に受け止めなればならないが、科学的に証明された結果のみで物事を判断する法律が職人を殺してしまったのも一理ある。大多数の職人は口が下手で、反論や証明が出来なかったのも事実である。生きるすべを商業の渦の中に埋められ、自由に職能が発揮できなくなった。これらが転機になり大工と呼びたい職人は極めて少なくなった。大工の最後尾がここにある。問題は、この最後尾の大工のそのあとに大工になりたいと門戸を叩いた若者たちである。残念ながら大工と呼ぶにはふさわしくない彼らは、むしろ被害者である。せっかく大工の技能を習いたかったのに習えなかった。墨付けと刻み、あるいは造作材料を仕上げることのない、工場製品の取り付けに追われる組み立て屋になってしまったのである。今一度、我々のような最後尾の大工が、職人としての考えを主張できる環境を作り、次の世代につなげることを実践しなければならないと考える。誇りを持って仕事に携わっていることが、胸を張って言い切れないと次の世代につなげられないし、誘い込むこともできないわけだから、まずは現役の大工連中が下を向かずに取り組んでいる姿を見せることである。

  失敗はつきものである。失敗が嫌だから、恥ずかしいから、工場での刻みにゆだねる。あるいは、単価が安いからといって、手と頭を使うことから遠のくことは、むしろ腕が鈍る。負の連鎖である。大工はその腕の持ち味をどのように世間に知ってもらうことができるだろうか。今となれば、職場としていた居住地の地域や地元を離れてしまい、近所での存在がわかってもらえる口伝えや、仕事の出来栄えが目に見えなくなると、どこからも引き合いがないのである。仕事を続けるには仕事が集まるところで歯車の一つにならざるを得ない現状にある。それをどのように打開していくかである。出来るのであれば、大工のうちの誰かが示してやり、後進につなげてやりたい。

  職人の生活水準と社会保障は日本の制度に全く追いついていない。そのことにおいては、発展途上のままである。職人たちの組合や団体が、未だにそのことに対しては足元がおぼつかないまま、若手の就業や育成ができずに今日に至っている。加入保険といえば、健康保険だけで十分だという一人親方のところへは、就職のあっせんはないわけで、驚くことに、そのような職業があることすら知らない若者がいる。頑張っている大工の最後の世代が、そのようなことも含めて、まずは職場の環境を整えてから、職人の技能の話を始めるべきである。

  大工は住宅産業の歯車であってはいけないのである。もっとしっかりしないといけない。大工に建築の委託が来るための準備が全くできていないから仕方がない。出来る様にしなかったのである。大工の質を落とした失敗例を次に掲げる。技術的なところでは、平面や矩計などの意匠設計、または構造設計においては素晴らしい経験と勘を持ち合わせているのにも関わらず、それを表現し、または根拠の説明をしなかった。大工が最も理に適った設計者になりえたはずなのに。現場においては、現実的な施工の状況を細かく記述したものをまとめておけば、実際の現場で納める際に、その現状のことが分かっていない仕様書に文句を言うこともなかったであろう。自分の流儀を押し通して、設計図通りに事を進めないなどの暴走を繰り返すと、施工の管理者に監視をされる羽目になった。目まぐるしく改正される基準法や建築を取り巻く関係法令についていかなかった。挙句の果てには、行政を敵だと思っている。営業に関して言えば、使用する材料は細かく把握しているのに、積算は大雑把で施主にとっては不親切である。あるいは、坪単価で受注をしてきたことにより、施主にとっては極めて不安である。その上に、口約束で大丈夫だなどと契約書は交わさずに、結局紛争になる。少しの親切心があれば、施主に有利な助成金の制度の紹介や、その手続きを代わりにやってあげれば頼りにされたのに。失敗の中には、引き渡した施主のその後の維持管理を疎かにしたことで、顧客を失う。ましてその施主が知人を紹介してくれるわけがなく、次にはつながらないのは当たり前なのである。その様なつけが回ってくるのにはそんなに時間はかからない。しかし、その代償はすぐには払えないのである。逆に言えばそれを改善すればよいのである。

 

  大工を頼りにしていた住宅関連企業は、その立場を簡単に逆転できたのである。とは言え、住宅産業をけん引する理想の人材は、やはり大工であるべきだと考える。尊敬のまなざしの上に胡坐をかくのではなく、気持ちを切り替え、職責の自覚を持ち、胸を張って次の世代に受け継いでくれる人材育成に力を注ぐことが出来る体制をつくることを急務としたい。

  実施設計図を示し、造り上げたい意匠があれば当然、そのような形のものが出来るのであろうが、出来栄えや見栄えは、入念な現場での打ち合わせの時に見せる設計者の意気込みにより変わってくるように思う。これも設計者の経験値によるのだろうか。ものづくりを委ねる大工のくせ(墨付け、刻み、造作における作業の過程や出来栄えなど)がどのようなものなのかを見抜いて、現場で伝えることができるか否かが設計者の手腕であろう。ものづくりの協働作業ができる設計者がいてこその連携だと思う。逆に現場の大工は設計者がどの意匠に重きを置いているかを見抜くことが、現場を円滑に進める。ここのおさまりはこういう風に見せたいということを汲み取って、木と木を組み込んでいく。ここには時間をかけるが、ここはそうでもないという意思が疎通して良いものが出来るかもしれない。設計者は規格化されていない造作を意匠とする場合は、工務店や大工の手持ちの材料や技量を見極めてからの作業にあたるべきだと考える。設計した部材断面の大きさや材料の種類は扱いやすいか、つまり入手が容易か、手に負える作業の範疇にあるかどうかも把握して、取り掛かることも大事なことである。個々の大工技能の技量においてそれを尊重してくれる、目線が合ってこそ設計者と大工が波長の合ったものづくりができるのではなかろうか。

 

大工がその現場での立場により、設計者が気を付けたいことがある。請負者と現場の大工がどのような関係なのかである。つまり、請負者がそのまま大工として、現場で作業に当たっているか。大工手間だけで現場に従事しているか。常用の大工であるか、のいずれなのかである。実施設計の重点を現場の大工と打ち合わせをするときに、どのような影響が出るかを把握しないといけない。実施設計は十分に把握しているつもりではあるが、図面で現れていないところの意匠を形にする場合、請負者が大工の場合は、時間とお金の釣り合いを考えながら、出来るだけ設計者の意図を表現しようとする。大工手間の受け取りの大工の場合、思いもよらない造作が発生する場合に、これも時間とお金を考える。請負者が追加料金を出すのか否かだ。まずは出さない。となると時間を省こうとする。出来るだけ意匠を重視したいのだが、背に腹は代えられない。こうなると事態は目に見える。そのかわりに常用の大工の場合は、打ち合わせに請負が顔を出さないと、とんでもないことが起きるのである。常用の大工であるがゆえに、任せていることは多々ある。しかしながら、どういうわけか、時間もお金も関係がなくなる。設計の先生がおっしゃるのだからである。となると言うまでもない。どれが良いとは言いにくいが、請負者が大工であることはある意味理想だといえるが、仕事を続けるのは現実的に厳しいところがある。大工手間の受け取りは、請負者は確実に利益を確保でき、仕事を目の前にぶら下げては大工を使い捨てにする住宅産業の悪者だと考える。仕事を受注できない大工にとっては、恩人であるので、仕事を回してもらっているうちは、付いていくしかない。しかし、仕事への思い入れが薄れていくのは明白である。常用での大工は、大工本人たちはおそらく幸せだ。施主にとっては悪くはないだろうし、設計者にとっても良いであろう。何も言うことはないはずなのだが請負者にとっては眠れない日が続くことがあることをわかってほしい。とはいっても、設計者は大工の納め方を経験の中で蓄積をし、大工は毎回、初めて経験をする意匠の具現化に努めることで刺激を受け、その上、技能の維持ができる。当たり前ではあるが、施主があっての仕事である。何より大切のしたいのは、施主がどれだけ喜んでくれるのかを、請負者と設計者はさることながら、現場の大工が如何に思い浮かべて携われるかだ。

 

本当の自然素材を活かした家づくりが特別なものとして扱われるのも、違和感を覚える。施主は騙されてはいけない。住宅の生産企業が、見せかけの自然素材を流行らせて、売り物にすることには、従来通りの仕様が自然素材であった我々にとってはよい迷惑だ。国の政策に便乗して施主の心をつかみ、建築業界をかき回して、次の流行に乗り移ることを繰り返し、職人を使い捨てにするのである。かといって、純粋な自然素材は使用することはできない。本物の自然素材は不具合の宝庫であるからだ。逆に我々はそれを強みに変えなくてはならない。素材の特性をよく知ることだ。当たり前ではあるが、まだまだできていない。同時に施主にも情報を共有し、ともに理解を深め、不具合は必ず生じるものであるが、それには代えがたい良さが、それ以上にあることを分かったうえで、取り組むことが大切である。不具合は修正をし、様子を見る。かといって、使用するに堪えられない不具合などはほとんどないのである。結局は施主にどれだけの予備知識を与えてあげられるかだ。また、そのことに常に身近で接してあげられるかだ。企業にとって、このようなことは、苦情でしかない。その処理に手を取られることを避けるため、本物の自然素材は使いたくても使えないであろう。職人も設計者も素材の特性をいかに見抜いて、どのような手法で形にするかを、それぞれの経験において、痛い目にあったことを出し合い、直面しているものづくりに活かすため、同じ方向を向いて取り組むことである。

 

設計者も施工者も実績の蓄積が輪を広げる。徐々に広げないと、地域で活動する自分たちの器の中でことをこなせなくなる。それ以外の宣伝広告を打ったところで、本質を追及してきてくれる施主は少ない。設計や施工を希望する施主には、できれば施工の途中から現物を見てもらいたい。常に同じ顔が現場にあるのだなとわかってもらい、完成をしたときにも的を絞ってみてもらう作業を繰り返す。信頼の上で頼んでもらえることが、固いつながりを持てることではなかろうか。不特定多数に宣伝をすると、手に負えない施主がたくさん来て、どれも仕事につながらないことが多い。巨大化すると手の仕事でのものづくりではなくなる。機械で製造された工業製品を売っているだけになってしまう。家は買うのではなく建ててほしいものである。その建築には数か月も要する地道な作業をしているにもかかわらず、営業の成果や結果をすぐに求める矛盾が世の中を駄目にしている。建築は文化である。決して流行による売り物にしてはならない。流行ったものは廃るのである。長い時間をかけて培われた風習と同じく、人の暮らしの基礎の一つである、欠かすことのできない住むところを手掛ける志を同じくするのは、文化を受け継ぐと信じる。

 

良い循環を求めたい。建築の根底を支える職人たち。職人たちの技量と資質を高めたうえで、社会が求める流れについていく知識を常に補充することを絶やさない。むしろ流れを作るべきだ。自ら仕事が取れる職人でなければ、職人としては生きながらえない時代になるであろう。責任をもって建築に携わる自覚を持った職人として、そのまた次の世代を育てることができる職人を育てる。設計者も同じ技術者として、絶やすことなく質の維持に努め、素材や気候風土を生かした住宅建築の文化をつなげていくことが出来る人材の育成に目を向けたい。